人物
高柳健次郎先生
1、「イの字」が初めて一般の人に知られたのは?
高柳先生は、昭和57年(1982年)の日本経済新聞「私の履歴書」という連載コーナーで生い立ちからの出来事を書かれています。
これは後に出版された「テレビ事始」の元になった内容です。「考え抜いた末の新方式 ブラウン管上に見事「イの字」」
とあります。
昭和45年くらいと推察しますが、ビクターが発行したソノシート「花とみつばち」で、木村孝子さんが高柳先生にインタビューしています。
内容を文字にしますと、以下のようです。
A面
(曲)
そっと 目を つむったら みえた お花の ??蜜
ふっと目をあけたら みえた(ララランラ)
犬のマークのビクターカラーテレビ(ワン ワン)
犬のマークのビクターカラーテレビ(ワン ワン)
ピアノ演奏(8秒)
(語り)
朝日に輝く美しい花の姿
その 香り 豊かな色彩
お茶の間 あふれるカラーの魅力
カラーテレビはビクター(繰り返し)
(語り)
いよいよカラーテレビの時代が来ました。
今日は世界中の人々がその恩恵を受けているブラウン管式テレビジョンの発明者で、第一回国際カラーテレビ祭においてテレビの発達に最も
功労のあった人として 特別表彰を受けられました 日本ビクター株式会社専務取締役 高柳健次郎先生をお迎えして
ブラウン管式テレビジョンを完成されるまでのご苦心を伺ってみましょう。
B面
先生、こんにちは。
こんにちは。
あのう、テレビによって私たちの生活様式、随分変わってしまったと思うんですけども
ブラウン管式テレビジョンを世界で初めてご発明になった方が、こんな近くにおいでになったなんてのは
日本人としてもっともっと、誇りにしたいと思います。
ところで先生、あの、今日は、テレビジョンをご発明になるまでのご苦心など色々お伺いしようとおもうんですけど
テレビのご研究を始めになったのたのはいつごろなんですか。
大正のね12年、ちょうど関東大震災がありましたね、その、2、3か月前のことなんです。
随分、お古いわけなんですね。あの、先生がご研究をお始めになったころ、外国に科学者の間ではどうだったんですか?
その当時、テレビジョンを実験されていたのは、オーストリアにミハリーってかたおられました。
この方が、オシログラフとかそういうものを使いましてね、鏡を震わせましてね、それで映像を分解する、そういう実験がありました。
あの、それからなんですか、最初画面に映しだされたのは、イロハのイの字だったと伺ったんですけれども、最初、初めて絵が出た時っていうのは、もう、大変なものだったのではないですか。
大変うれしかったですね。私ね、この、雲母板の上に、ね、雲母板、あれ、こう、墨でね、カタカナのイの字を書きましてね、それを非常に強いアーク灯で照らして送ったわけです。
受ける方にブラウン管の上にね、イの字がぼんやりと、こう、出ましてね。初めて、出たんですよね。私は忘れもしませんけど、
大正15年の12月25日でしたかね、ただ、文字を送ってたんではね、面白くない、やはり、生きている人間がね、顔が出したくてね、それから夢中になって、その顔を
出すようにね、努力ありましたんですよ。なんとか、まあ目鼻口がわかって、想像がつくような顔が出るようになったのが昭和2年の暮れでしてね。
じゃ、あの、一般にテレビが発売されたのは?
これはね、ずーっとあとでね、昭和の14年・・でしょうね。昭和15年にオリンピックがありますね。それで、その準備のために昭和12年からNHKの技術研究所
私が入って、テレビの方のね、放送および受信の準備をしておった。
その時に、受像機がね、(聞き取れない「普及率ゼロパーでしてね」と言っているのか)。まあ、私、色々なメーカーさんの方にお願いし、受像機を
作って頂いた。そんなかでビクターが一番進んどった。
そうしますと、あれですね。日本で初めて、あの、テレビが発売されたのは日本ビクターから、ということですね。
そうですね。そうなんですよ。
あの、ビクターのカラーテレビをみていますと、色がとってもきれいですね。
カラーというのは色がね、非常に鮮やかに出るわけですけど、これがね、日本人の感じですと色彩感覚が強いんです。
ですから、珍しい色に出るだけでは満足しない。間調色が、中間色が良く出てる。
ほんとに見た、自然の感じで色がでる。そういう点で努力工夫して、立派なものになりましたですね。
とてもきれいですね。どうもありがとうございました。
あの、これからもどうぞ頑張っていただきたいと思います。
ありがとうございます。
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と、「イの字」という言葉がでてきます。カラーテレビの出始め、昭和40年くらいでしょうか。
上記のソノシートを聞くと「日本で初めてテレビが発売されたのは日本ビクター」と言われていますが、シャープ(早川電機)とされています。
私の履歴書(26)(日本経済新聞)には、「国産第一号のテレビ受像機を世に出すのは早川電機という栄誉になった」と書かれています。
話が違う感じもしますが、そのあたりはアドリブでしょうか。
日本では早稲田の川原田先生などより高柳健次郎が強調されて、ブラウン管にイの字が写った、ということが
強調されているのだと思います。今のところ、イの字を強く宣伝したテレビ番組などは見つけていません。
私の印象ですが、余りにもイの字が強調されすぎて、機械式テレビの実演ではイの字ばかりで、人の顔とかは
映してもらえないのが残念です。
なお、NHKの朝ドラの凛凛とで、主人公は高柳先生と思っていたら、川原田先生だった、というのはNHKとしては
何か意図があったのでしょうか。
2、雲母板に書いた「イの字」の受像は有名だが、「大の字」を書いた雲母板も遺されている。これは何か
「私の履歴書」という新聞の連載コーナーで、イの字を書いた雲母板に並べて大の字の雲母板も写真が出ています。
どちらも使用したと思います。
3、イの字は縦走査か横走査か
縦走査も横走査もどちらも可能です。雲母板の角度を変えるだけです。ブラウン管側は偏向コイルを90°回転するだけです。
風景を撮影するときに走査方向を変えるのは簡単ではないです。ニプコー円板前面のレンズや扇型スリットの位置を90°変えなければいけません。
答えとしては、縦走査も横走査もどちらもあった、です。
・欧米テレビジョン訪問の後の心境
「欧米テレビジョン視察記」という報告書から引用します。
5.感想と希望
私は今度の旅行において、従来、本校において採つて来た方針及び今後行なわんとする方針に何ら誤りなくこれに勇往邁進するの信念を得たことを深く幸とするものである。
しかしただ残念に思ったのは、自分たちはせっかくよい考へ方を有しながら此の三年の間技術的には何ら進展も行うことができ無くて、研究を停止頓挫したことである。帰校後ただちに自分の研究室の成績を見て、自分が第三者としてわずかに条数百本に停滞している映像を視た時いかにも劣って見えることを非常に恥ずかしく思った次第である。私共は従来研究の最も中枢とするところを東京電気株式会社研究所に依頼してい居た。これが停頓挫の原因である。研究の中枢は自らやらねばダメであるということは以前よりもつくづくかんじていたのであるがしかし此の外遊によって各研究所を訪問して、はっきりとその証明をみてきた。しかしもうようい。自分は帰校後研究室を一巡して、わが信愛なる研究室諸君が中島先生ご指導の下に和衷協力して私の留守中に真空その他の技術を習得して、もう本校でもどんどん好きなものが出来るようになったことを大変うれしく思っている。これからは思い切って存分な研究をしてみたい。私の胸は此の希望にもえている。
更に私はこの度の旅行で技術と資本を結びつける組織についてかんがえさせられた。これ等の中、最も羨むべき地位にあるのはR.C.A Victor Co.である。ドイツでは各会社は経済上は困難している様であるが思い切ってテレビ受信の研究をしている。其上独逸の逓信省が全体の統制を取り莫大な資金を投じて、総合試験を行っていかれる点は羨ましい次第である。
私は今がテレビジョンの最も研究されるべき時と信じている。なるほどテレビジョンは却々経済的に事業として未だ可能でないのかもしれないがしかし少なくとも経済を度外視したテレビジョンは実行可能であり、映像も立派なものを得ることはもう何ら疑いのない處である。それも何年というさきではなく、ここ二三年の中に完成するものとみられている。
此の機にもし日本としてぼんやりしていればどういう結果になるか。
テレビジョンは放送用、娯楽用として使用されるばかりでなく特殊通信として利用されうるのであるからR.C.A.Victorあたりが、立派な成績を挙げていながらこれを極秘にして公開しないのはあながち商売上の秘密のみとは断定できない。
私は外国旅行して、初めて日本という国が如何にありがたく良い国であるかを知った。そして心からこの国の為に命を捧げたいと思った。そして外国におけるテレビジョンの進歩を見た。私は一人の高柳や浜松高工の高柳たることを忘れて日本人として此のテレビジョンを如何かして、外国に先んじて完成したいという念願を起こした。
帰故郷後我旧知の東京電気株式会社研究所の人々がテレビジョン装置に成功されここに発表されるを聞き、自分は個人としては自分のふがいなさを憤るが翻って日本国民として亦同好のものとして衷心より嬉しくおもうものである。亦早稲田大学においても発声映画電送に手を染められるし、放送協会の中西氏も捻鏡車を改良せられつつあることは誠に気強く感ずる次第である。只甚だお気の毒に思うのは良成績を収められつつ幾多の考案をなされた逓信省の曽根氏が経費の為仕事が十分できないことである。私は事情を承はって他人事でないと思った。
日本においてはかくの如く各所において各々其の信念に応じて、特異の方法を研究している。相競うことがかえって励みを生じる故にこれもよろしいと思う。ただ私共は日本のテレビジョンを完成するということを忘れずに相励みあうと同時に協力することを忘れてはならない。
しかし我々が各所で研究しているのはテレビジョンの根本の研究実験である。これを実用に供し放送を実施するには此の研究の外にかのR.C.A.Victorや独逸逓信省の行っている如き無線放送、有線あるいは無線による中継などの別箇の問題を研究解決せねばならぬ。私たちが出来るならば自分の研究所にも施設して自らやるのもよいかもしれぬがしかしそれは日本国家として最善の途ではない。日本国家としては独逸逓信省の遣方と同様に、国家を代表する逓信省か或いは将来テレビジョンを経営すべき日本放送協会が主唱者となってしかるべき技術者を集めて行うことが当然である。私共はぜひ至急やってもらいたいと思うのである。東京付近に二百メートル以上の空中線を立てて少なくとも二十キロワット以上の電力をもって放送し其の受信試験を行い次に此の無線中継の方式を研究し、一方有線中継の方法を研究して日本国としていかなる数の局を如何なる地方に設け、それらをいかに連絡するかの計画の為基礎研究をする必要がある。この試験には、送像方式其のものは本校の装置でも東京電気式でもどこのものでもよい。普通のものを使用してこれを行い二三年を待つときは、本校及びその他の處において理想的な送受信機が完成されると思うから之を採用されればよい。
この無線の研究には莫大な経費が必要で一寸考えても二百万円程度必要と思われる。人或るいは、未完成のものに今よりかかる莫大な経費を支出するの愚をいうかもしれないがそれは誤りで、今研究しなければ数年の後之を実施するときに外国の特許をまた高い値で買わねばならぬことを覚悟せねばならない。テレビジョン丈は国産でやりたい。外国の特許をかってやることは計算から見ると一寸目には、安値で良いように思われるが買った技術は根がないから進歩がなく、次にその式が旧式になるとまた外国の厄介になるのである。今思い切って自分で研究しておけば実施後はそれに対する充分なる知識を有するがゆえに、自ら将来の改良進歩を行いえて、結局勝利を得ることが明らかである。なお研究費は多額に費消されてもこれは国内に支払われるものであるがゆえに日本国民を富ますことになるかが外国特許を買った金は外国へ渡って彼らの将来の研究を助ける役目をして却って敵となるものである。この意味において私はぜひともこの研究に即時着手せられんことを希望する次第である。
テレビジョン研究の最も重大時期に再開しここに赤心を吐露して本研究に関する国民各位の絶大なるご声援を願う次第である。
4、高柳健次郎先生より先にブラウン管でテレビジョン実験したボリス・ロージンクについて
日本経済新聞の「私の履歴書」には、「海外でブラウン管受像機と機械式送像機を使った人がいましたが、送像機の方に特殊な方法を使ったのでうまくいかなかった」
と記述があります。ロシアのボリス・ロージンク先生のことを指していると思います。ロージンク氏は受像機はブラウン管、送像機にはニポー円板を使用せず、ロジンク鏡車(ロージンク鏡車)というものを使いました。
ロジンク鏡車は低速鏡車と高速鏡車を用いたものです(水平走査と垂直走査をそれぞれ行う)。1907年に実験しています。ロージンク先生はあのズオリキン先生が学んだ先生で、ロシアの人です。
画像を得るまでには至らず、電子線を左右に振りながら上下に動かすような、つまり走査線(らしきもの)を描かせることには成功したようです。
光電管(1889年発明)の感度は低く、三極真空管が発明されたのが1907年ごろなので、電子ビームを変調することは困難であったと思います。
受像側にブラウン管を使用するアイデア自体は、高柳先生がイの字の実験成功の20年くらい前にはあったのです。
では、なぜ研究者は受像も機械式で行ったのか。それは作りやすさ(真空技術が不要)と鮮明さだったと推察しています。
当時は送像機は機械式で走査線数は多くて60本くらい、多くは30本とか40本です。機械式の問題点は同期の不安定さでした。
当時の写真はシャッタースピードの関係でブレてしまっていると思います。実際はもっと鮮明だったと思います。
それに対してブラウン管式は同期は安定しますが画面が暗いこと、電子ビームの収束が不十分で絵がボケていたと思います。
送像機の電子化について目途が全く立っていないので、当面は送受ともに機械式で実験しようと考えたものと思います。
5、アイコノスコープで最初に受像したとされる画像
安藤博先生
川原田政太郎先生
早稲田大学の電気の先生です。NHKの朝ドラ「凛凛と」のモデルの研究者です。
・なぜもっと早く映写機の光源利用に気付かなかったのか
・アイコノスコープ開発以降、テレビ開発をやめた理由
曽根有先生(そね たもつ)
逓信省のテレビ研究者です。大きなレンズ(Φ150 F1.6)など自分で研磨して
製作されたようです。
可搬式のテレビカメラや対向テレビジョン(テレビ電話)など開発されました。
川原田先生と一緒にテレビ研究されていた山本忠興先生のお弟子さんです。
対向テレビジョンは、機械式のニポー円板が1枚で送受を兼ねることが出来ることに着目した良い応用と思います。
その他のテレビ研究者 苫米地貢先生、伊藤賢治先生、他
海外
イギリス J.L.ベアード 起業家としてのアプローチ
米国 ジェンキンス
、ウラジミール・ズオリキン
、フィロ・ファーンスワース
ロシア(ソ連)
ドイツ
カラーアダプターの形